映画「パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト」を観て

 

Paco de Lucía

Paco de Lucía

 

大好きなギターリストの映画「パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト」を観ました。
ギターの調べでしか知らなかったパコのことを身近に感じる映画でした、パコの言葉やちょっとした仕草そして音楽に打ち込む姿勢は私の胸を熱くしました。ギターを弾くために生まれた天才が何に悩み苦しみ、伝統や枠組みを突破し、もはやフラメンコを超越した「パコ・デ・ルシアという音楽」を完成させて66歳で逝ってしまったのだと只々圧倒させられた映画でした。多くの方はアル・ディ・メオラやジョン・マクラフリンらとのスーパーギタートリオのイメージが強いと思います、そんな方に是非観て欲しい映画です。

地中海の舞踏

Mediterranean Sundance

スペインのバレンシア地方のアルヘシラス出身。ジプシーや下層階級の街で父は夜になるとミュージシャンとして街へ出掛けていった母はポルトガル移民で父はギターリストでした3人兄弟の末っ子は7歳にして父親を認めさせる才能を開花させます。兄のペペとデュオ「Los Chiquitos de Algeciras」でその名を知られるようになります。1962年ヘレスで開催された国際フランメンコ コンテストで優勝し、ホセ グレコとともに兄のペペは米国巡業を開始しました。その後兄を追って渡米し兄弟でアメリカで巡業その後に運命的な出逢いが訪れる、サン・フェルナンド出身のカンタオール(フラメンコにおける唄い手)であるカマロン・デ・ラ・イスラとの出逢いはパコが伝統的フラメンコに精力を注いだ時期だと私は思う、そしてパコの狂気と完璧主義は次への扉への階段を上がることになる。カマロンの歌声はジプシーであった母親から受け継いだ天性のものであり、それでもパコの要求に応えられたのはカマロンだけだったのでは…..。2人は「ラ カナステーラ」として知られる新しい解釈のフラメンコ「パロ」を考案し、また伝統的なフラメンコのしきたりを拒む様に観られました。即興(アドリブ)やリズム(パコは天性的にリズムの感性があった)の再解釈は、古典的伝統派フラメンコギターリスト(トマティート.サビーカス..)から批判を浴びることになる。

その後の活動は、少し生き急いでいるかの様な気がしますマドリードを出て世界的へ…特にジョンマクラフリン.チックコーリア.ラリーカールトン.アルディメオラ…ルンバ.ラテンミュージック.ジャズ.フュージョンなど様々なジャンルとミュージシャンとの共演はパコのギターリストとしての階段を駆け上がって行くことになる。ツアー中に路上で黒人が打楽器として箱を叩いているのを聞いて「コレだ!」と閃きペルー発祥の「カホン」(木製の打楽器)、カホンを取り入れます。『貧しさは悪い事ばかりでは無い』や『音楽と歌と舞踏が明日を生きる悦びになる』正確では無いですがこの様な台詞が映画の中で語られています。私は世界の民族には伝統として祝祭、祭典があり、私はそこに親和性を感じます。

約10年ほどジャズ・フュージョンに傾倒していたかのようなパコが’87にリリースしたアルバム“Sirocco(シロッコ~熱風)”で聴かせる「フラメンコヘの回帰」。見事なまでのテクニックとパコのギターでアピールしている素晴らしい作品です。1992年にはスペイン政府芸術金メダルを受賞、同年の5月に来日。パコは日本贔屓なのか映画の中でも浴衣を羽織っているのが嬉しい2001年5月には3年の沈黙を破りセクステットで来日する。色々とあったけど(スペインでの戦争)で故郷に戻れなかったことが、結果的にはパコの音楽性を高めることになったと感じてしまう。

2014年2月26日、メキシコのキンタナ ロー州カンクンにある、ガブリエラ カンセコが搬送した病院でパコは亡くなりました。カリブ海の町シュプハの隣にある、トゥルム近くのビーチで子供たちと遊んでいるときに具合が悪くなった。家族はキューバから戻ったところで、彼は友人であるフェリックス グランデが亡くなったことを受けて禁煙したばかりでした。彼の心臓が止まると、それと一緒に音楽界の心臓も止まりました。「年を重ねるほど、人は醜くなるだけでなく、賢くなるものだね」と語っていました。

家族やソウルメイトの相次ぐ別れは、少なからず彼を憂鬱にしたでしょう。
全ての曲に終わ理がある様にパコ・デ・ルシアという音楽も終わった。

乱文失礼しました。立川

引用
Google Arts&Clture パコに想いを寄せて
ウィキペディア(Wikipedia)

イラストはステージでのパコとスーパーギタートリオの
Mediterranean Sundance のイメージで描きました。

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